犬飼 太一の奮闘記──人間社会で生きる試練
太一は、ごく普通のサラリーマンだ。朝はスーツに着替え、満員電車に揺られながら会社へ向かう。会議では上司の理不尽な指示に耐え、ランチでは安定の社食メニューを選ぶ。帰宅後は軽く運動し、風呂に入り、一日の疲れを癒す。
だが、太一には誰にも言えない秘密があった。
──彼は犬だった。
職場での試練

太一は、社会に溶け込むために必死だった。まず、喋る練習をし、パソコンを使えるようになった。入社試験も難なくクリアし、優秀な社員として働いている。
しかし、どうしても抑えられない衝動があった。
「おーい、太一! お前の報告書、なかなか良かったぞ!」
上司に褒められた瞬間、尻尾を振りそうになった。
「ふ、ふふん。ありがとうございます!」
慌てて自分を律する。会社では絶対に犬っぽさを出してはいけない。だが、時々無意識に口が開き、舌を出してハァハァしてしまうことがあった。
恋愛の壁

太一には気になる人がいた。営業部のエリカさん。明るくて優しく、よく話しかけてくれる。
「犬飼くんって、すごく誠実でいい人よね!」
「そ、そうですか?」
心臓がバクバクする。いや、正確には心臓ではなく、しっぽがちぎれそうなくらい振りたくなる。
だが、一つ問題があった。
エリカさんは猫派だった。
「でも、もし私が犬派だったらどう?」
彼女の何気ない一言に、太一の胸がざわつく。まるで、ほんの少し可能性があるかのように。だが、それは叶わない夢だった。
彼女の机には、愛猫「ミント」の写真が飾られている。SNSにはミントとのツーショットが大量に投稿されている。
「やっぱり猫は最高よね!」
その言葉に、太一の心はズタズタになった。
飲み会という恐怖の場

ある日、会社の飲み会に参加した太一。
「太一、犬っぽいところあるよな!」
「えっ……」
一瞬、血の気が引いた。
「なんていうか、素直で忠誠心が強いっていうかさ!」
ホッと胸をなでおろす。だが、次の瞬間──
「じゃあさ、これ食べられる?」
酔っ払った同僚が、太一の目の前に犬用おやつを差し出した。
(な、なぜこんなものが!?)
太一は震えた。だが、ふわりと漂う香りに本能がざわつく。
「い、いや、そんなの食べるわけ……」
しかし、気づけば口が開き、バクリ。
「あっ……」
「あはは! 冗談だったのに、本当に食べた!」
笑い声が広がる中、太一はそっと拳を握った。
「えっ、なんで普通に食べたの?」
「もしかして、本当に……」
誰かの視線が鋭くなった気がした。
太一は慌てて笑ってごまかそうとしたが、喉にひっかかる違和感が拭えない。
(まずい、今のはやりすぎたかもしれない……)
(やばい……このままじゃバレる……)
クライマックス──すれ違いの正体
日々、太一は苦悩していた。
「俺は……このまま人間として生きていけるのか?」
周囲に溶け込もうとするたびに、無理が生じる。犬としての本能を押し殺し、人間として振る舞う。それでも、心のどこかで違和感が拭えなかった。
ある夜、太一は公園のベンチに座っていた。月明かりの下、遠くで犬が吠える。
──帰りたい。
そう思った瞬間、涙が溢れた。
そして太一は決意する。

決定的だったのは、会社の会議室での出来事だった。
「犬飼、次のプレゼン頼んだぞ!」
緊張の瞬間。だが、太一は我慢できなかった。
──ワンッ!
会議室が静まり返る。
「……今、犬の鳴き声しなかった?」
「ま、まさか……」
太一は絶望した。
もう誤魔化せない。
その場から逃げ出した。スーツを脱ぎ捨て、広い草原へと走っていった。
しっぽを振りながら──。
「吾輩は犬である」

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