第1章:好きな食べ物は?波乱の質問タイム

第1章:春の出会い、桃の香り
春の朝。
まだ冷たさを含んだ光が、カフェの大きな窓から降り注いでいる。
ハルは、テーブルのカップに指先で触れながら、ぼんやり外を眺めていた。
さっきまで参加していた公開講座――小説家志望向けのワークショップは、思った以上に刺激的だった。
だけど同時に、自分だけ場違いな気がして、少し心が重たかった。
胸元には、講座の受付でもらった簡単な名札がまだ貼られたまま。
白地に黒いペンで、ひらがなで『ハル』とだけ書かれている。
そんなとき。
「ねえ、好きな食べ物って何?」
向かいのテーブルにいた青年が、不意に声をかけてきた。
茶色い軽めのショートヘア。
柔らかく笑う顔に、どこか無邪気な雰囲気が漂っている。
ハルは一瞬戸惑った。
(……え、誰?)
知らない人から突然の質問。
でも、その笑顔に敵意はまったく感じなかった。
「……桃、ですかね。」
少しだけ間を置いて、ハルは答えた。
すると、彼はふわっと微笑んで、まるで昔からの友達みたいに言った。
「桃かあ……ハルちゃん、桃みたいだもんね。」
「……え?」
驚いて、ハルは自分の胸元を見た。
名札。
なるほど、それで名前を知ったのか。
青年は、いたずらっぽく名札を指さして見せた。
「ほら、バレバレ。」
小さな声で笑う彼に、ハルは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
(でも……なんだろう、この安心感。)
初対面なのに、不思議と、怖さも警戒心もなかった。
むしろ、心のどこかがくすぐったくて、あたたかい。
「俺、壮太。よろしくね、ハルちゃん。」
彼――壮太は、ラテのカップを片手に、自然に名乗った。
「……ハルです。」
ハルも、小さく、でも確かに答えた。
窓の外では、春風がやわらかく街を撫でていた。
その風に乗って、カフェの中にも、ほのかな桜の香りが流れ込んできた。
ハルはまだ知らない。
この朝の、たったひとつの出会いが、
これから自分の世界を、そっと、そして確かに動かしていくことを――。
第2章:愛の告白と秒速の失恋

冗談みたいな告白も、春の光の中では特別に思えた。
カフェを出たあと、二人は駅前のベンチに腰掛けた。
春の風がコートの裾をやさしく揺らしている。
壮太は、缶コーヒーを手に取り、ぱきっとプルタブを開けた。
その音が、朝の空気に小さく響く。
「ハルちゃん。」
「はい?」
「付き合ってください。」
あまりにあっさりとした口調に、ハルは一瞬、言葉を失った。
「……えっ?」
「あ、いや、冗談冗談!」
壮太はすぐに手をひらひらと振った。
でも、ほんの一瞬だけ、その目が本気だったことを、ハルは見逃さなかった。
(どうして、そんな顔をするんだろう。)
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
「……壮太さん、ずるいですよ。」
「そうかな?」
「そうですよ。」
ハルは小さな声で、コートの袖をぎゅっと握った。
缶コーヒーの湯気が、春の冷たい空気に溶けていく。
「ハルちゃんはさ、夢とかある?」
不意に壮太が尋ねた。
急に話題を変えたその不器用さに、ハルは少しだけ微笑んだ。
「あります。……小説家になりたいんです。」
「いいね。」
壮太は優しく笑った。
けれどその笑顔の奥にも、何か隠しているものがありそうだった。
(壮太さんは……何か、抱えてる。)
ハルは確信に近い直感を覚えた。
だけど、それを無理に聞き出すことはしなかった。
たぶん、今はまだ、聞いちゃいけない気がした。
「じゃあ、ルールを作ろう。」
壮太が、ふっと顔を上げた。
「これから、一駅ごとに小さな冒険をする。必ず、何かひとつ新しいことをやる。」
「それ……面白そうですね。」
ハルは笑った。
本当に、心から笑った。
春風が、ほのかに金属と桜の香りを混ぜた匂いを運んでくる。
(この人となら、知らない景色を見に行けるかもしれない――。)
そんな予感に、胸が高鳴った。
けれど、その予感の奥に、ほんのわずかな不安も同時に生まれていた。
それはまだ、ハル自身さえ気づいていない小さな違和感だった。
第3章:ふたりだけの特別ルール

―ふたりだけのルールが、未来への扉をそっと開いた。
電車がホームに滑り込み、二人は静かに乗り込んだ。
朝の車内は、思ったよりも空いている。
ハルは窓際に座り、壮太はその隣に腰を下ろした。
電車が動き出すと、床に伝わる微かな振動が、心地よく身体を揺らした。
「本屋に着いたら、何から探そうか。」
ハルがふと口にした。
「冒険だし、行き当たりばったりでよくない?」
壮太はにこにこと笑った。
「行き当たりばったり……」
「うん。ルール、作ったじゃん。」
壮太は指を立てて言う。
「一駅ごとに、小さな冒険。」
ハルも笑いながら、頷いた。
「じゃあ……今日の冒険は、“一番上の棚にある本を、背伸びして取ってみる”にしましょうか。」
「いいね、それ。」
ふと、壮太がハルを見つめた。
その視線には、どこか懐かしさにも似た、温かいものがにじんでいた。
だけどその奥に、ほんのわずか、翳(かげ)があった。
一瞬だけ、何かにすがるような、そんな寂しさ。
(壮太さんは、どうしてそんな目をするんだろう。)
ハルは思った。
でも、聞く勇気はまだなかった。
車窓の外、春風が草原を渡り、白い雲を追いかけている。
鉄橋を渡るとき、電車がきいんと低く金属音を立てた。
「そうだ、ハルちゃん。」
「はい?」
「今日から、俺たち、”一駅ずつの仲間”だね。」
「……なんですか、それ。」
笑いながらも、ハルの胸はすこしだけ、温かくなった。
「一駅ごとに、何かを見つけて、一緒に進んでく仲間。」
壮太はさらりと言ったけれど、ハルにはそれが、とても大切な宣言のように聞こえた。
(仲間――)
その言葉を心の中で何度も反芻しながら、
ハルは電車の振動に身を任せた。
だけど、心のどこかでは、
壮太のあの一瞬の寂しげな瞳が、消えずに残っていた。
第4章:小さな冒険、電車に乗り遅れる

春風に吹かれながら、ふたりの小さな旅がまたひとつ動き出した。
改札を抜けると、電車の発車ベルがホームに響いていた。
「やばい、走ろう!」
壮太が声を上げる。
ハルも息を呑み、バッグをぎゅっと握りしめた。
二人はほとんど同時に駆け出した。
スニーカーがタイルを打つ音が、乾いた春の空気に弾む。
目の前、電車のドアが、ゆっくりと閉まっていく。
「待って!」
壮太が叫んだけれど、無情にも、ドアはぴたりと閉まった。
プシューッという気圧音を残し、電車はするすると走り出してしまった。
「……乗り遅れた。」
ハルは、両膝に手をついて大きく息を吐いた。
頬に流れる風が、ちょっとだけ冷たかった。
壮太は笑いながら、ポケットからペットボトルの水を取り出して、ハルに差し出した。
「お疲れ様、仲間。」
「……仲間って、こういうときも言うんですね。」
「むしろ、こういうときこそ、だよ。」
壮太は満面の笑みで言った。
その明るさに、ハルはまた、胸がほんの少しだけ温かくなった。
だけど――
その横顔に、またしてもほんの一瞬、誰にも見せない寂しさがちらりとよぎった気がして、
ハルは視線を落とした。
(……気のせい、だよね。)
次の電車まで十五分。
二人はホームの端にあるベンチに並んで座った。
ホームに響くアナウンスの声、
遠くで列車がレールを軋ませる音、
春風が吹き抜けるたび、どこか懐かしい鉄の匂いが漂ってくる。
「そういえば、」
壮太がぽつりと言った。
「こうして、予定が狂うのも、冒険のうちだよね。」
「……たしかに。」
ハルは笑った。
そして、心の中で思った。
(この人となら、どんなハプニングも、悪くないかもしれない。)
ふと視線を向けると、壮太も同じタイミングでハルを見て、またあの無邪気な笑顔を浮かべた。
電車を一本逃しただけ。
たったそれだけなのに、ハルの胸は、そっと高鳴っていた。
第5章:未来の夢と宇宙への憧れ

―「ハルちゃん、夢、叶えようね。」
電車が来る音が、遠くからゆっくりと近づいてきた。
ホームに立つハルと壮太。
春風がふわりと二人の髪を揺らした。
「ハルちゃん。」
ふいに、壮太が口を開いた。
「うん?」
「ハルちゃんの、いちばん大きな夢って、なに?」
壮太の声は、いつもの明るさの裏に、少しだけ真剣な響きを帯びていた。
ハルは、目を閉じて、小さく息を吸った。
「小説家になりたい。……ずっと、夢だったんです。」
「そっか。」
壮太は優しくうなずいた。
「ハルちゃんなら、きっとなれるよ。」
その言葉が、春の光みたいにやさしく心にしみた。
「壮太さんは?」
今度はハルが尋ねる番だった。
壮太は、一拍置いてから、空を見上げた。
「宇宙に行きたい。」
「宇宙……?」
ハルは驚きと、少しの憧れを混ぜた声を出した。
「うん。広い空の向こう側まで行って、誰も知らない景色をこの目で見たい。」
その瞳は、キラキラしていた。
だけど――その奥には、ほんの少し、焦るような、追い立てられるような影もあった。
(……壮太さんは、なぜそんなに急いでいるみたいに見えるんだろう。)
ハルはそっと、そんなことを思った。
電車がホームに滑り込んできた。
ドアが開き、二人は並んで乗り込む。
車内に流れるアナウンスの音。
春の匂いを運ぶ風が、ドアの隙間から忍び込んでくる。
二人並んで窓際に座った。
「ハルちゃん。」
「はい。」
「夢、叶えようね。」
壮太が、まるで約束するように言った。
「……はい。」
ハルも、小さく頷いた。
本当に叶えられるかなんて、わからない。
だけど、今この瞬間だけは、信じたかった。
隣にいるこの人と、
この春風と、
これから続いていく未来を。
電車が静かに走り出す。
新しい街へ、新しい冒険へ。
ハルと壮太の小さな旅は、まだまだ始まったばかりだった。
エピローグ:本屋へ、そして未来へ

――春の光の中で、ふたりの冒険が静かに始まった。
電車が隣町の駅に到着した。
ホームに降り立つと、春の風がふわりとハルの髪を揺らした。
少し冷たくて、でも心地いい風だった。
壮太は肩から下げたリュックを軽く叩きながら、ハルを振り返った。
「行こう。今日の冒険、第一歩だ。」
「はい。」
ハルも微笑んでうなずく。
二人は駅前の商店街を抜け、小さな横道へと入った。
すぐに、目当ての本屋が見えてきた。
木造の古びた看板。
ガラスの扉越しに、ぎっしりと並んだ本たち。
微かに、紙とインクの匂いが漂ってくる。
「いい感じの店だね。」
「ですね。」
本屋の前で足を止めたふたり。
ふいに、壮太がハルの方をちらりと見た。
「今日のルール、覚えてる?」
「ええ。“一番上の棚から、本を取る”ですよね。」
ハルは小さく笑った。
「よーし、いっちょ背伸びしてみるか!」
壮太が軽やかに拳を握った。
その無邪気さに、ハルはふっと肩の力が抜けた。
扉に手をかける瞬間、ハルはちらりと壮太の横顔を見た。
(きっとこの人も、何かを背伸びして掴み取ろうとしているんだ。)
そう思った。
ガラスの扉がきぃ、と小さな音を立てて開く。
外の世界の光と、室内のやわらかな明かりが交わる。
そして、ふたりは、本屋の中へ一歩を踏み出した。
それはたった一歩。
でも、きっと――
未来へ続く、小さな大きな一歩だった。
【第2話予告】
カフェでの出会いから始まった、小さな冒険。本屋での第一歩は、思いがけない失敗の連続だった。
「届かない棚、届かない夢――それでも、手を伸ばすんだ。」
不器用なふたりが、そっと手渡し合う小さな勇気。春の光のなか、まだ言葉にならない想いが芽生え始める。
第2話『届かない背伸び、拾った言葉』
次回も、君と、ひと駅。

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